小原掃部は英雄で、竹原定雄は臆病者か?

今日はある戦国時代の使者についてのお話をしたいと思います。

まずは史料をあげましょう。

史料『政基公旅引付』文亀元年(1501)九月十日条
十一日、〈丙/戊〉晴、行水等如例、自京小原掃部下、去七日定雄等相共ニ罷下之処、於堺路次不叶之由有雑説、仍定雄ハ従堺又出京、掃部ハ身ヲ失テ参候由申之、去八日根来寺之者押寄長瀧庄発向了、其子細ヲ当庄之事ト風聞歟、慮外/\、

 日記の記主・九条政基は、戦国時代の公家です。関白もつとめた人ですが、晩年には京都を飛び出し、自らの家領である日根野庄へ下向し、直接荘園の経営にたずさわりました。

 その政基が、日根野庄に滞在中に記したのが『政基公旅引付』です。中世の村人の生活がわかる一級資料ですが、他にも和泉国の守護・細川氏やそれに仕える武士たちに荘園侵略に対し、必死の抵抗をみせている様が読みとれます。

 さて、今回あげた史料は、京都にいる政基の子・尚経から日根野にいる政基に遣わされた使者のことについて記されています。

 史料を読み解いてみましょう。小原掃部という九条家の侍が、京都から日根野庄に下ってきたのですが、その道中、堺において掃部は日根野庄へは行けないという噂を聞ききます。この噂にふれ、掃部は命の危険を顧みず日根野庄に向いましたが、同道していた竹原定雄は京都に帰ったとあります。

 掃部と定雄の対応を比較すると、掃部は身命を賭して使命を果たす勇者にみえ、定雄は臆病者のように思えるのではないでしょうか。しかし、通行予定の道が危険であることを知り、その道を避けようというのは当然の対応です。むしろ、そういった情報(噂)をもとに、行き先の状況を真剣に考え、通行の是非を選択する中世人の意識に注目して、この史料を解釈していきましょう。

 小原掃部と竹原定雄が堺に着いたとき、彼等は守護の軍事発向があったことを知り、日根野庄の発向が困難なことを知ったわけですが、結局のところその段階では、どこで戦が起こるのか、もしくは起こっていたのかは知らなかったわけです。となると、守護の軍事発向は、一般の人々にとって、出勢したことはわかるが、一体どこに向かうものなのかはわからなかったものであることがわかります。


 もうひとつ、政基は掃部や定雄の日根野行きを迷わせた風聞の内容を、日根野庄に出兵するための軍事行動だったのではと述べています。この認識を人々が持っていたとすれば、守護所(堺)において、日根野庄というのは、根来衆(和泉守護と大阪南部(泉南地域)の支配をめぐり争っていました)と並び、守護の軍事発向の対象となってしかるべき場であったことを意味しています。「泉南に守護が攻めるのであれば、日根野庄だろう」という空気があったとすれば、日根野庄は守護領国おいて異質な世界であったとみることもできるでしょう。

 以上をふまえれば、守護が泉南に発向した狙いはわからないけど、日根野庄の可能性が高いのでは、という憶測が巷間にただよっていたことがわかります。こういった不確かな情勢認識しかないなかで、日根野庄に向かわなければならない使命を背負った掃部と定雄は対応を迫られ、それぞれ別の途をとったわけです。


 不確かな状況というのは常時あります。むしろ、明確なことがわかることなんかそれほど多くないのではないでしょうか。まして、明確なことがわかっても、問題になるのは結果があるからです。定まっていない状況下でいかなる決断が下せるか。それができなければ、定雄を臆病者呼ばわりすることをできないのではないでしょうか。なにひとつ確かなことがわからない世界にあって、いかに自分で決断できるか。答えのない世界を生きる醍醐味は、ここにあるのではないでしょうか。

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洛中に住む山伏

今日は京都の町内に住んでた山伏をちょっと紹介します。

昨年から中世の勧進聖について調べておりまして、聖や山伏が出てくる史料を網羅的にひろってます。

ちょっとややこしい話なのですが、「勧進聖」というのは、勧進をする聖(そのまんまですが)のことです。しかし、「勧進聖」と言われる人がいるのではなく、聖や山伏などが「勧進聖」という職に就くというのが私のとらえ方です。なぜこんなことを言うかというと、勧進聖と山伏の違いはどこにあるのか?というのがたまに問題となっているからです。ようするに勧進聖と山伏を同じ位相でとらえ考えているということになります。ただ史料をみると、「山伏を勧進聖となす」という表現が見られるので、私は勧進聖と山伏を同じ次元で考えようと思っていません。

とまぁこういったわけで、勧進聖を調べるにあたり、聖・山伏単体で追うという手法をとっています。

さて、洛中に住む山伏について。いろいろと史料を集めてみますと、公家の日記なんかに山伏がちらほら現れてまいります。その中でちょっと注目しているのが愛宕社の山伏です。

公家の日記に出てくるこの愛宕の山伏。みてみると、現在の御所の西側に居所を構えている者がいます。しかも一人だけではなく、2、3人、名の異なる愛宕の山伏が町名までは異なるものの、近くに居住しているのです。

現在確認している者だけでも、土御門町、元頂妙寺町、革堂(旧地)などにいたことがわかりました。どうやら愛宕の山伏はやや固まって洛中に住んでいたように思われます。

では、愛宕社以外の山伏はどうだったのか?が次なる問題となってきます。この点はまだまだ調査不足ですが、愛宕の山伏が住んでいたあたりに、伊勢神宮の勧進比丘尼であった清順の弟子と思われる清舜の宿所が、誓願寺通(現在の元誓願寺通)にあります。山伏ではありませんが、愛宕の山伏と同じく、寺社の勧進を行う宗教者がこのあたりに住んでいるのです。

しかも誓願寺自体、修復を十穀聖が勧進でもって行っています。なにやらつながりがありそうではありませんか。

また、場所をまだ確定できていないのですが、私の論文で取り上げた多賀社の勧進を行っていた慶春という山伏が、言継の邸宅付近に住んでいます。これも愛宕の山伏の近くに住んでいたとなると、戦国時代の勧進にたずさわる聖・山伏は、寺社の所属を問わず、洛中に居を構えていたとことなってきます。

実はよくよく史料をみてみると、勧進にたずさわる聖・山伏は、京都に限らず都市にちらほら出てきます。今まで確認しただけで、堺、安土城下(織田信長居城)、高屋城下(畠山氏守護所)にいたことがわかりました。都市に住む聖・山伏のネットワーク。この究明は今後の重要な課題です。

やや話がふくらんでしまいましたが、では、愛宕の山伏は、京都に住んで何をやっているのか?残念ながらはっきりとしたことはわかりませんが、秋ごろになると、檀那場に出かけていることは確かです。だいたい二ヶ月ほどで廻檀を済まし、京都に戻ってくるようです。となると、愛宕の山伏の生活拠点は、京都にあったということになります。もちろん檀那場がひとつだけであればの話ですが・・・。

むしろ複数の檀那場をめぐっていたと考えるなら、愛宕社に近い京都の方が便利かもしれません。しかし、そうすると、なぜ愛宕社付近に居住しないのか?という問題に直面します。

ところで、山伏というと、漠然と山に住む、山で修行しているというイメージを持っている人が多いと思います。もちろんそういう山伏もいたと思いますが、一方で、研究によれば、中世末くらいになると山伏が人里で生活するようになるとされています。

山から人里への生活場所の変化は、修験が人々の生活に密着していく過程の画期としてとらえられています(宮本袈裟雄『里修験の研究』吉川弘文館、1984年)。もちろんそういったとらえ方を、町に転用させることはできるでしょう。しかし、もう少し別の観点から山伏の京都の居住を考えられないでしょうか?

愛宕の山伏の事例から導き出したいのは、中世の山伏は必ずしも寺社に所属するものではない、ということです。愛宕の山伏といいますが、もちろん愛宕のために廻檀をするわけですが、完全に愛宕社の支配化に入っているわけではなく、檀那と寺社の間でやりとりされる音信を請け負っているにすぎないのではないでしょうか。

というのも愛宕の山伏は、聖護院門跡の大峰入峰にも供奉するなど、聖護院とも関係を持っています。つまり、愛宕の山伏は、聖護院と愛宕社に両属しているわけです。無論、聖護院と愛宕社とでは、所属といっても、所属の質が異なります。あまりうまくいえないのですが、愛宕社とは勧進の請け負いの関係が、聖護院とは修験という宗教教団的なつながりがあり、それは互いにぶつかりあう関係性にはなかったのではないでしょうか。

山伏の持つこういった関係の複数性が、中世段階において、寺社の勧進にあたっても寺社の周辺に住むことを強要されなかった要因のひとつとしてあげられると思います。むしろ、勧進活動において物の調達が便利で、かつ勧進においても人が集まる都市に居住する方が最適であったと考えたいのです。


中世後期における山伏、ひいては勧進は、あまり評価が高くありません。「修験道史」という文脈でみたとき、山から下りた山伏の姿は、修行に従事する山伏本来の姿の頽廃と映るからです。また勧進活動も、救済や布教のための活動からただの聖・山伏による商売ととらえられてきました。実際に、この時期になると勧進=金儲けという見方を社会が強くするようになるのも事実です。

こういった視座の克服のひとつとして、修験道という宗教が人々に身近となるという観点から山伏が山から下りたという現象を評価する見方があるわけです。また近年、太田直之氏によって、中世後期の勧進も、金儲けとして堕落の一途をたどるのではなく、勧進にあたる聖は、十穀断の行(断食)をする清廉な宗教者であり、だからこそ勧進が功を奏すようになったのだと指摘しています。これまでの修験道史(宗教史)が提示した山伏、勧進の堕落観の見直しがはかられているわけです。

この研究動向は、私も支持したいところではありますが、私は宗教性の問題以上に、山伏がもつ「自由さ」というものにこだわりたいと思っています。まったく所属が無いわけではないが、所属にともなう支配被支配の関係はゆるく、それによって生活や活動が規定されているわけではありません。もちろんこういう「自由さ」が良いのか悪いのか検討する必要があろうかと思います。しかし、かかる「自由さ」が何をもたらすのかに私はいま少しこだわって聖・山伏、勧進を追いかけたいと思います。

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水の都の視点

桜が散って、風景はすっかり夏らしくなってまいりました。
抱えておりました仕事が、ひとまず片付き、ゴールデンウィークを迎えることになりました。とはいえ明日・明後日と出勤なので、ひとまず三連休を楽しみました。

あまり外には出ない方なのですが、昨日は大阪水上バス・アクアライナーに乗ってきました。今まで京阪淀屋橋駅を降りると、水上バス乗り口とあったのでいつかは乗ってみたいなと思っていたのですが、昨日、その思いを果たすことができました。

私が乗船したところは、淀屋橋港で、他にもOAP港、大阪城港、天満橋港から出航しています。淀屋橋港からのコースは、大川をのぼり、大阪造幣局をこえOAP港まで行き、そこで折り返して、途中、寝屋川へと入り大阪城港へ。そこから再度折り返し、淀屋橋へ戻ってくるコースでした。

途中いくつもの橋をくぐるため、船は非常に平たくて、窓が水面近くとなっています。水面ぎりぎりから大阪の町を見上げるようなかたちで進んでいくところに特徴があろうかと思います。しかし、この視点こそが今回は大変勉強になりました。

というのも、今でこそ道路や地下鉄道が整備され、水路が行き交う大阪の町を自由にまわることができますが、江戸時代までは橋は少なく、現在橋が架かっているようなところは、渡し船で行き来をしていたのです。

船で移動する。こういった感覚は、頭ではわかっていても、体験してみないとなかなかイメージできません。今回乗船してみてそれがつくづくわかりました。そこで乗船して思ったことを少しお話したいと思います。

淀屋橋港のすぐ真向かいには、大阪市役所・中央公会堂・市立図書館があります。市役所は御堂筋に面し、行き来も簡単ですが、よくよくみると、現在の市役所は川の中できた島の上に建っています。この島が中ノ島です。橋や道がなければ簡単に行き来できるような場所ではありません。
しかし、大阪市行政の中心が島にある。これは、中ノ島が蔵屋敷が立ち並んでいたことに起因します。ようするに中ノ島は物資の集積地だったわけです。なぜ集積地なのか。それは大阪の町が、船で行き来する町だったからに他なりません。今でこそ御堂筋が通りアクセスが容易な中ノ島ですが、本来は船でのアクセスを前提とした場所なのです。
こう考えると、改めて大阪の町内における水路の重要性が認識させられます。現在は、観光船や屋形船が数隻通るだけですが、船のにぎわいは想像を絶します。

淀屋橋港を出て、いくつかの橋をくぐりますが、その橋の中に天神橋というのがあります。近世の絵図にも出てくるそうですが、船内の解説を聴いてますと、天神橋の管理は大阪天満宮が管理していたとのこと。京都の四条橋を祇園社が、五条橋を清水寺が管理していたことはよく知られていますが、ここでも寺社が参詣路となる橋の管理をしていたことを知り興味深く思った次第です。とはいえ江戸時代には幕府の管理となっていたようですが、寺社と橋の関係は、いずれ深く考えてみたいと思っています。

OPA港まで大川をのぼり、そこで折り返して下りに入ると大阪城をこの目でとらえることができました。川から大阪城を眺めるなんてことは普段できませんので、この珍しい風景を堪能していたのですが、そこでふと思いついたのが、京都から船で淀川を下り大阪に行った中近世の人々のことです。例えば中世末の醍醐寺の僧であった義演は、秀吉の死後、祈祷のために二ヶ月に一回のペースで、醍醐寺から宇治川・淀川を下って大坂城へ登城しています。我々は船から見る大坂城をめずらしがってますが、むしろこの時期の旅人にとってみれば、船から見る大坂城が当たり前の風景だったのかもしれません。また、権威の象徴でもある城をどのように眺めていたのかも大変気になりました。

大坂城に近づくと、城の石垣が目に飛び込んできます。それは立派な石垣なのですが、ところどころに排水溝が設けられています。その排水溝がいつのものなのかは定かではありませんが、コンクリートではなかったので、そう新しいものでもないと思います。城が非常時の仮居住空間であったのが、次第に支配者の生活空間となるにつれ、こういった設備がつけたされていくわけです。防禦の機能を持つ堀が、同時に生活排水にも活かされる。城の機能の移り変わりを考えさせられました。

他にも多くの発見があったのですが、能力不足で具現化できません。ただ今回の体験は大変参考になりました。大阪という空間を考える時、水路という問題を抜きしていは語れないということを身をもって学んだつもりです。

もう船で行き来をするような生活は、ほとんどみられなくなり、観光でしか需要が見込めない状況です。しかし、大阪の失われた風景に思いをはせるうえで、また大阪という町を本当に理解しようと思うなら、水上バスは欠かすことのできないと思います。大阪にきたときはぜひ体験することをお勧めいたします。

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旅の途中で売られてしまった巡行の話

正式には4月1日からですが、今日、大学では来年度に向けてのガイダンスが行われました。私の学部入学当初は4月4日くらいが入学式でしたが、授業日数を確保という理由で近年はどこも前倒しになっているようです。

少しルーズだったところが、「ちゃんとする」という空気になったと言えるわけですが、甘えられなくなったという以外にどこか閉塞感のようなものを感じるのは私だけでしょうか?

話はかわりますが、先日誕生日をむかえ、いよいよ30歳となりました。30歳になってどういった言葉がつむげるか。挑戦を続けていきたいと思います。

さて、今日は面白い史料をみつけたのでそのお話をしたいと思います。

紹介するのは興福寺に伝わる大般若経の奥書です。

●興福寺大般若経奥書(『宮津市史』史料編第一巻)

天文廿一年〈壬子〉七月十日、於春日社般若屋書写之訖、料紙高御門宗蓮、油煙西御門行友、筆小西孫四郎、右筆良尊・賢忍、永禄元季〈戊午〉十月廿日以瓦屋本一交畢、以写本一交了、箱塗施主塩冶一岐守、塗師才次郎、丹後国之女房巡礼三人アリケルヲ、手掻ノヤキモチウリノ女房所行ニテ、三人ノ内十九才ニナル巡礼ヲ一人タフラカシテ、(略。地名が入っており特定できるので伏せておきます)ノケ井セヰヤヱ一昨日ハカノ日ウリ畢、ノコリノ二人ノ巡礼此事ヲナケキケルヲ聞付、中坊ヨリウリ手カヰ手トモニメシトラレ了、明日断頭アルヘキ由也、(略)彼巡礼ヲハ則トリカエサル、各祝着シ三人ウチツレテ社参申了、ヤキモチウリ此度ノミニアラス、当年モ二三人巡礼ヲウリ畢之由風聞在之、先代未聞曲事也云々、

奥書というのは、本や巻子(かんす。巻物)などの末尾に記された文字を指し、一般的には作成された経緯が記されています。今回あげた冒頭部分にも、この大般若経が作られた年月日と作成にたずさわった人々の名が記されております。ただちょっとかわっていることは、校正をした永禄元年(1558)10月20日の日付後に、その日の前後に、奈良で起こったある事件について書かれていることです。

正直この事件には衝撃を受けました。訳してみますので、旅人になったと思ってみてください。

【訳】
丹後国(現・京都府北部)の女房3人が奈良春日社を訪れていたのですが、手掻きの焼餅売りの女房が、3人の女房のうちの19歳の女房をたぶらかし、●●の傾城屋(けいせいや。いわゆる遊女小屋)に売ってしまった。参詣にやってきた残りの二人の女房は、これを知り嘆いていたところ、中坊(興福寺の衆徒)がこれを聞きつけ、19歳の女房を売った焼餅売りと女房を買った傾城屋を逮捕した。この二人は明日、斬首の刑に処せられるということである。(略)よって売られた女房は取り返され、無事を祝い、3人そろって春日社へ参詣に行ったという。ちなみに、焼餅売りの参詣者を売る行為は今回だけでなく、今年だけで2・3人被害にあっていたということである。前代未聞のけしからんことである。

戦国時代の人身売買のお話です。戦乱の時代に、女性3人だけで旅をする。こんな風景をどう思うでしょうか?たくましいですよね。ただ今回の話で注目すべきは、なんといっても人身売買です。

有名な寺社で諸願成就の祈る丹後国から出てきたうら若き乙女に、人身売買の魔の手が襲い掛かったわけです。春日社の参詣路でちょっとひといき。なんて気分で立寄ったのでしょうか。それが身売りされてしまうとは…。かなり恐ろしい世界です。

しかも、人身売買をしていたのが焼餅売りですからびっくりです。そもそも焼餅売りはどんな手でかどわかしていたのでしょうか?手口は定かでありませんが、何人もの女性を売り飛ばしていたわけですから、かなり巧妙だったのではないでしょうか。

中世の人身売買については、飢饉時に親が子を売った時の証文が残っていたり、最近では、戦国時代に大名が隣国へ攻め入って際、人々をさらいごく普通に市場で売っていたことがわかっています。しかし、参詣のため遠くからやってきた人々(巡礼)までが騙され、売られていたとは知りませんでした。

参詣の場は明るい、開かれた空間というイメージがありますし、参詣者はアジールである(手が出せない)ように思われていると思います。傾城自体はどちらかといえば、その明るいイメージに属すでしょう。しかし、その傾城が、陰湿な経営を行っているわけです。特殊な例とは思いますが、中世の寺社参詣の場で行われているダークな部分を垣間見たような気がします。

ただこの史料に触れて救いだったのは、この人身売買が、中世において暗黙の了解で行われてきた人身売買としては認められなかったことです。なぜ認められていないのかというと、人身売買をした焼餅売りと傾城屋が、興福寺衆徒によって捕縛され処刑されているからです。

中世社会は、人身売買が慣習として認められていたことは間違いありません。ですから今回の史料でそれを覆そうというつもりもありません。しかし、一方的に騙して行われた人身売買を認めてしまうような社会でもないことをここに記しておきたいと思います。

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