同楼と同棲

今日から学校は試験週間に入りました。

この時期になると、さすがに研究室も騒がしくなります。

普段やらない勉強をして気分がハイになるのでしょうか?

また、4回生は卒論の口頭試問で緊張気味です。「何が聞かれるんですか?」と質問をよくされますが、「そんなん知らんわ-!!」の掛け合いばかりです。

さて、今日のお話は質問にきた子の話。

「福井新聞」を読んでる学生がいまして、活字がつぶれてて読みづらいので協力してほしいとのこと。学生が読むのを聞きながら、字の確認をしていたのですが・・・

その新聞記事には、明治期の朝鮮のことについて記されていまして、中国兵に王宮を攻められ、王が中国兵のもとへ投降しようとしていたらしいのですが、臣下のひとりが、「中国兵に陛下が降るのは国の恥辱だ(訳)」といって、玉泉楼というところに逃げたそうです。

はっきりとは覚えてないのですが、その記事には、王と臣下が「同楼」へ逃げたとあったのですが、活字が見えなかった学生は、王と臣下が「同棲」したと読みました。

「(爆笑っ)!! なんでやねん!!! なんで王と臣下が、中国兵に攻められてるときに同棲なんかすんねん!! でもウケたからいいわ(笑)」

しかし、それを終えるとどっと疲れが…。

史料をただ文字通り読むのではなく、しっかり史料に記された情景を思い浮かべながら読んで欲しいと思う今日このごろです。

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リストラからみる「下剋上」への疑問

奈良興福寺の門跡もつとめた経覚という僧侶が記した日記に、こんな記事がありました。

依越州錯乱、細呂宜郷今分ハ年内不可有年貢歟之間、自今日召置少々出之減人数了、年久奉公者共少々給暇之間、事外周章云々、(『経覚私要鈔』長禄2年11月21日条)

【読み下し】越州錯乱により、細呂宜郷の今分は年内年貢あるべからざるかのあいだ、今日より召し置き少々これを出し、人数を減らしおわんぬ、年久しく奉公のものども少々いとまたまうの間、ことのほか周章とうんぬん、

意味は越州(ここでは越前(現・福井県)を指します)で政治情勢が乱れたので、細呂宜郷からの年貢は今年は入ってこないだろうから、召抱えている奉公人を少しやめさせて、人数を減らすことになった。昔から仕えてきた奉公人が別れの挨拶にやってきたのだが、彼等は(経覚のもとを去ることになり)ことのほかあわてふためいているという。

ちょっと悲しいお話です。長年仕えてきたのに、奉公先の経済事情によって奉公人数名が首を切られてしまったのです。「事外周章云々」とありますから、奉公人たちは、このような事態となってかなり狼狽したと思われます。

なんせ大乗院門跡といえば、数ある寺社権門の中のなかでもトップクラスにあたるわけで、あまりいい例えではありませんが、現代に置き換えれば一流企業といってもいいでしょう。そんなところを勤め先としていた奉公人たちは絶対安心と思っていたことでしょう。

しかし、越前での戦乱によって、所領の1つから年貢が入らないだけで、奉公人数名がリストラされてしまうのです。

ところで、奉公人がリストラされてしまう直接の契機となった「越州錯乱」ですが、これは越前国内における守護と守護代の対立のことを指します。

越前の守護は斯波氏ですが、そのもとで守護代をつとめていた甲斐氏が守護と対立し、武力衝突に発展します。この戦いは、どうやら守護方が勝利したようですが、甲斐氏は直接将軍と結びつき後ろ盾となってもらうことで、越前における実権回復に乗り出し、越前への侵攻を開始します。

結果、甲斐氏は敗れてしまうわけですが、上下関係でいえば下にあたる守護代が上である守護にはむかう。いわゆる「下剋上」の一例ともいえます。

このリストラが行われた時期は、室町時代中頃で、ちょうど足利義政が将軍だった頃にあたります。

この時代の歴史叙述としては、「一揆」が時代を特徴づける事象としてあげられます。とりわけ今日あげた『経覚私要鈔』や『大乗院寺社雑事記』には、それこそ「下剋上」という言葉がみえ、下が上を打ち倒すような事件が諸国でみられます。

そう考えると、昔言ったような荘園制の終焉だとか、戦国の世の到来だとかは、ひとつ奈良の僧侶で荘園領主であった経覚や経覚と同じく大乗院の門跡をつとめ『大乗院寺社雑事記』を記した尋尊の時代感覚から導き出されたものであるといえます。

ここに60~70年代をピークとする民衆闘争の思潮とあいまって、「一揆」や「下剋上」で特徴づけられる室町時代の歴史叙述が展開したのは言うまでもありません。また、応仁の乱の元凶とも言われている足利義政の気分屋的悪政についても、『経覚私要鈔』が記すところであります。

しかし、『経覚私要鈔』から復元できる室町時代の社会は、「下剋上」の世を支配者層が嘆くというというようなものばかりではありません。むしろ、「下剋上」を嘆きつつも、「下剋上」がもたらす上下秩序が再編されていくのをうまく利用し、経済基盤を再構築するような動きがみえてなりません。

土一揆が徳政(貸借関係の破棄)を求め、土倉を襲うことを、秩序の乱れと嘆きつつも、土一揆の要求によって徳政が行われることになったら、土倉より借金をしている権門も貸借関係を破棄するべく土倉につめよる、質物を奪い返すといったことが『経覚私要鈔』にはみられますし、経覚その人も尻馬にのっている一人です。

こういった感覚をふまえつつ、リストラに戻れば、そもそも細呂宜郷の年貢が入らなかったのは、それ以前に年貢を確実に得るため、在地の有力者であった甲斐氏を経覚が頼っていることに原因があります。

これを評価するのは難しい問題です。経覚が甲斐氏を頼った理由はいろいろと考えられるでしょう。①経覚は守護・斯波氏を頼り、斯波氏が甲斐氏にそれを任せた。②経覚が在京していて在地のことは直接的に把握していない斯波氏よりも在地で力をもつ甲斐氏を直接頼った。

①であれば、経覚は、守護・守護代の上下関係(秩序)を守って所領の経営を行おうとしたといえますが、②であれば守護とか守護代といった上下関係おかまいなしに所領の経営を行おうとしたということになります。とすれば、上を無視して下を引き立てる、下剋上そのものの構造をつくったのは、他ならぬ経覚ということにもなってしまいます。

なにやらえらく話が飛躍してしまいましたが、私が言いたいのは、室町時代を描く時、上下関係の混乱が時代を描く指標となっていたわけです。そして、その原動力に甲斐氏のような在地領主の台頭があげられていたわけです。ですが、その台頭者と、守護とは別の上(荘園領主)と結びつくという世界も広がっています。これだけをみても、この時代を単に「下剋上」の時代と表現するだけでは不十分であることがわかるでしょう。

誰とつながればそれぞれの抱える生活が安定するのか?それを模索する時代が室町という時代なのではないのかなと、リストラからどんどん展開させて思った次第です。

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豊臣秀頼の寺社造営?

本年度は新しい試みとして、後輩二人と豊臣秀頼の寺社造営に関する史料をとにかく集めてみるということを進めてまいりました。

ですがはじめてみると少しずつずれていき秀吉も含む、みたいな状態になりつつあります。

しかし豊臣家の寺社造営に関してみて思うのは、「豊臣政権」というものと、豊臣秀吉ないし秀頼という人格を分けて考えるべきなのではということです。

もちろん、前近代の政治権力の特徴は、ある特定の人格もしくは家による人々の支配は、治める人として私人たりえない「公」(オオヤケ)としての性質が求めつつも、恣意性が併存し、その恣意性が公を上回り他者に害をなす可能性を常に保持しているところにあります。

であるがゆえに、人の上に立つ王の人格や家という存在が、排除されてしかるべきという論理がうまれるものであると思います。

ある程度、統治機構として「公」を体現するはずの官僚組織が、秀吉の裁量ひとつでくつがえされるということはざらにあったかと思います。とすれば秀吉の裁量が政権の意思そのものであるというようなことになるでしょう。

ただ、秀吉・秀頼期の寺社造営をみるとき、確かに豊臣政権のチェックは入っているのですが、秀吉・秀頼の関与の仕方は奉加者(資金援助者)の一人という枠組みをこえていないように思えてなりません。

政権として関与しているのか、秀吉・秀頼(淀)個人の意思として関与しているのか。これを一度分析してみることで、一般的に言われているような近世以降の政権による寺社支配という観点を見直すこともできるかと思います。

そんな挑戦を大谷大学の片隅で現在行っています。がんばりまーす!

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『のぼうの城』を読んで

先日、京都の本屋で和田竜著『のぼうの城』を購入。読みました。

読書後、職場の横にオススメ図書と紹介したところ、どうやら人気の本のようで、通りがかった学生から「この本、めっちゃ面白いですよね!」と声をかけてもらいました。

確かにこの本、面白いのです!!

ざっくりいえば、強大な軍事力と物資でもって、攻める寄せる豊臣軍(大将・石田三成)を、忍城という小城にこもり徹底交戦した成田長親が破るという話です。

小が大を破るというところになんともいえない痛快感があり、それが文章でよく表現されているのですが、それとは別の意味で楽しむことができました。

この小説のもととなる話、成田城の攻防戦は、江戸時代にできた『成田記』をベースに書かれています。すなわち、近世史料から戦国時代の復元を行っているわけです。

歴史を学ぶものにとって近世の軍記物語をもって中世の「歴史事実」を叙述することははばかられるところでありますから、この小説はいわゆる歴史家にとって批判の対象になるでしょう。「史料批判が行われていない!」と。

確かにそれは問題なのかもしれません。実際に作者が『成田記』を事実が記されたものとしてみている傾向があります。(ただし作者は物凄く史料を読んでいます。)

ただしそれはあまり問題にしたくありません。ひとつのテクストとして読んでどう思うか?という観点でみたいのです。すると面白いことがわかります。

江戸時代に『成田記』が作成された理由は、私は知りません。ただ推測すれば、地域の掘り起こしや、過去への関心を持っていた、地誌編纂や先祖の功績を後世にといったことが作成要因として考えられるでしょう。仮に事実を知っている人に尋ねて記されたとしても、また江戸時代の人が「事実」を記したくてできたにせよ、なんらかの「目的」があったことは間違いないでしょう。

ようするに私が言いたいのは江戸時代において、なんらかの意図もとにできた歴史が『成田記』であるということです。戦国のことが書かれていますがあくまで江戸時代のテクスト(思想)になります。

そしてようやく私が面白いと感じたところに入りますが、江戸時代にできた『成田記』=テクストを、再度現代に『のぼうの城』として再構成されているということです。では『のぼうの城』で再構成された忍城攻防戦から見出された思想の中身とは何なのか?が次なる問題になります。

これはかなり私の主観になりますが『のぼうの城』には、ある種の「組織論」が語られているようでなりません。「のぼーう」っとして武器は使えず野良仕事も不器用な何にもできない城代の成田長親が、能力はあるが個性が強すぎて家老たち(部下)をまとめあげていく。

それに対し、長親の敵として現れる豊臣軍は力と金でつながる、小説で言うところの「利」でつながる集団です。

単純に豊臣を大、成田を小とし、小が大を挫くといったストーリーに面白さを感じるわけですが、個性が発揮できるゆるさを持ちつつも、ひとつの秩序があるような組織像というのを、近世のテクストから読みとったのが『のぼうの城』ではないかと思えなりません。

こうしてみていくと歴史小説で語りかけていくことも移ろってきたのではないかと思います。私は北方謙三著の『破軍の星』と『武王の門』が大好きで、何度も読んでます。どちらも南北朝時代を題材とし、網野史学を反映し、海の民、山の民にスポットをあてながら、地方の統治を任された北畠顕家と懐良親王の存在に国家を相対化していく可能性をこめた著作です。陸奥や九州という地域(フィールド)があり、主人公がそこに地域国家を目指すわけですが、地域というよりは「民衆」をメインとした国家を描くところに主眼があるように思います。

『のぼうの城』には民衆が登場し、民衆が大活躍します。したがって、民衆の意地を伝えた民衆メインの話なのですが、国家の相対化はどこにもありません。支配被支配よりは、形(「利」によってできる集団)と形(「和」によってできる集団)の対立であって、両者に力の差はあっても序列の上下はありません。支配被支配の関係が、もはや問題とならなくなった言説空間に今、我々がいることをひしひしと感じます。これを良いことと考えるか、はたまた悪いことと考えるか、考える岐路にあるのかもしれません。

多少脱線しました。支配被支配の問題はさておき、最後に言いたいことを言います。

先に言いましたように、以上の読みは私の主観でしかありません。ただ、ひとつの歴史、過去のテクストに意味を見出す。こういった営みを、歴史を学ぶ学生にも感じて欲しいと思う次第です。よってこの本をおすすめします。

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