奈良興福寺の門跡もつとめた経覚という僧侶が記した日記に、こんな記事がありました。
依越州錯乱、細呂宜郷今分ハ年内不可有年貢歟之間、自今日召置少々出之減人数了、年久奉公者共少々給暇之間、事外周章云々、(『経覚私要鈔』長禄2年11月21日条)
【読み下し】越州錯乱により、細呂宜郷の今分は年内年貢あるべからざるかのあいだ、今日より召し置き少々これを出し、人数を減らしおわんぬ、年久しく奉公のものども少々いとまたまうの間、ことのほか周章とうんぬん、
意味は越州(ここでは越前(現・福井県)を指します)で政治情勢が乱れたので、細呂宜郷からの年貢は今年は入ってこないだろうから、召抱えている奉公人を少しやめさせて、人数を減らすことになった。昔から仕えてきた奉公人が別れの挨拶にやってきたのだが、彼等は(経覚のもとを去ることになり)ことのほかあわてふためいているという。
ちょっと悲しいお話です。長年仕えてきたのに、奉公先の経済事情によって奉公人数名が首を切られてしまったのです。「事外周章云々」とありますから、奉公人たちは、このような事態となってかなり狼狽したと思われます。
なんせ大乗院門跡といえば、数ある寺社権門の中のなかでもトップクラスにあたるわけで、あまりいい例えではありませんが、現代に置き換えれば一流企業といってもいいでしょう。そんなところを勤め先としていた奉公人たちは絶対安心と思っていたことでしょう。
しかし、越前での戦乱によって、所領の1つから年貢が入らないだけで、奉公人数名がリストラされてしまうのです。
ところで、奉公人がリストラされてしまう直接の契機となった「越州錯乱」ですが、これは越前国内における守護と守護代の対立のことを指します。
越前の守護は斯波氏ですが、そのもとで守護代をつとめていた甲斐氏が守護と対立し、武力衝突に発展します。この戦いは、どうやら守護方が勝利したようですが、甲斐氏は直接将軍と結びつき後ろ盾となってもらうことで、越前における実権回復に乗り出し、越前への侵攻を開始します。
結果、甲斐氏は敗れてしまうわけですが、上下関係でいえば下にあたる守護代が上である守護にはむかう。いわゆる「下剋上」の一例ともいえます。
このリストラが行われた時期は、室町時代中頃で、ちょうど足利義政が将軍だった頃にあたります。
この時代の歴史叙述としては、「一揆」が時代を特徴づける事象としてあげられます。とりわけ今日あげた『経覚私要鈔』や『大乗院寺社雑事記』には、それこそ「下剋上」という言葉がみえ、下が上を打ち倒すような事件が諸国でみられます。
そう考えると、昔言ったような荘園制の終焉だとか、戦国の世の到来だとかは、ひとつ奈良の僧侶で荘園領主であった経覚や経覚と同じく大乗院の門跡をつとめ『大乗院寺社雑事記』を記した尋尊の時代感覚から導き出されたものであるといえます。
ここに60~70年代をピークとする民衆闘争の思潮とあいまって、「一揆」や「下剋上」で特徴づけられる室町時代の歴史叙述が展開したのは言うまでもありません。また、応仁の乱の元凶とも言われている足利義政の気分屋的悪政についても、『経覚私要鈔』が記すところであります。
しかし、『経覚私要鈔』から復元できる室町時代の社会は、「下剋上」の世を支配者層が嘆くというというようなものばかりではありません。むしろ、「下剋上」を嘆きつつも、「下剋上」がもたらす上下秩序が再編されていくのをうまく利用し、経済基盤を再構築するような動きがみえてなりません。
土一揆が徳政(貸借関係の破棄)を求め、土倉を襲うことを、秩序の乱れと嘆きつつも、土一揆の要求によって徳政が行われることになったら、土倉より借金をしている権門も貸借関係を破棄するべく土倉につめよる、質物を奪い返すといったことが『経覚私要鈔』にはみられますし、経覚その人も尻馬にのっている一人です。
こういった感覚をふまえつつ、リストラに戻れば、そもそも細呂宜郷の年貢が入らなかったのは、それ以前に年貢を確実に得るため、在地の有力者であった甲斐氏を経覚が頼っていることに原因があります。
これを評価するのは難しい問題です。経覚が甲斐氏を頼った理由はいろいろと考えられるでしょう。①経覚は守護・斯波氏を頼り、斯波氏が甲斐氏にそれを任せた。②経覚が在京していて在地のことは直接的に把握していない斯波氏よりも在地で力をもつ甲斐氏を直接頼った。
①であれば、経覚は、守護・守護代の上下関係(秩序)を守って所領の経営を行おうとしたといえますが、②であれば守護とか守護代といった上下関係おかまいなしに所領の経営を行おうとしたということになります。とすれば、上を無視して下を引き立てる、下剋上そのものの構造をつくったのは、他ならぬ経覚ということにもなってしまいます。
なにやらえらく話が飛躍してしまいましたが、私が言いたいのは、室町時代を描く時、上下関係の混乱が時代を描く指標となっていたわけです。そして、その原動力に甲斐氏のような在地領主の台頭があげられていたわけです。ですが、その台頭者と、守護とは別の上(荘園領主)と結びつくという世界も広がっています。これだけをみても、この時代を単に「下剋上」の時代と表現するだけでは不十分であることがわかるでしょう。
誰とつながればそれぞれの抱える生活が安定するのか?それを模索する時代が室町という時代なのではないのかなと、リストラからどんどん展開させて思った次第です。
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